【モチベーションのありか】個人プレーとチームプレー
今日は「チームプレーが苦手だ」という人とチームプレーについて考えた。
チームプレーとは
チームプレーの考え方は色々な視点で語ることができると思うが、チームの成果を最大化させる個々人の活動、なんじゃないかと考えた。
ここを出発点に、チームプレーが苦手という人と、チームプレー難しいですね、という話をしていた。
その人は個人プレーヤーとして尖っていた人で、所謂『チームプレー』は苦手だと言っていた。そうですね、と僕は答えた。
でもそんな雑談めいた事を話していながらある時ふと突然、
この人はチームプレーが得意なんじゃないかと思った。
個人プレーヤーのチームプレー的資質
その人は、個人プレーヤーの尖り方として、個人タスクを超効率化するタイプの人だった。その人の行動基準は、楽しいか、と言ったものではなく、効率的かどうか。それ故に個人として尖り、チームとしての行動が苦手だと思っていた。
自分で行動したほうが早いと考えていたからかもしれない。
そんな人に対して、「自分がやりたいと思っていた事を他人に振るって好きじゃないですか」と言った。
「うん、確かに」と彼は言った。
それって実は、チームプレーがすごい得意なんじゃないですか。
チームプレーがチーム活動を最大化させる事だと考えると、普段自分が考えて、自分一人で解決できないことがあるというなら、行動しきれてない事を人に任せたらどうですか。
実はそれってチームプレーなんですよ、と言ったら彼はすごい納得していた。
「チームプレーって確かに馴れ合いみたいなイメージあってエモーショナルな感じが好きじゃなかったんだよね」と、単語に対する嫌悪感みたいなものを語ってくれた。多分そうなんだろうなと思っていた。
ですよね、でも今の話でいうチームプレーはロジカルなので、多少なエモーショナルがあっても主じゃないんですよ。
「確かに! 今日一番の納得だわ」
ここまで話して、僕は彼と別れた。
視点とモチベーション
人が活動をしていく上でモチベーションはとても大切、だけど大変。
なぜなら、
同じ活動をしていても、モチベーションが上がる人と上がらない人がいるから。
同じ活動をしていても、視点次第でモチベーションが上がったり下がったりするから。
同じものを、いかにその人のモチベーションが上がる視点で見させてあげるか、がチームとして活動していく上で大事なんだろうなと思った。
そこまで配慮するようなチームがいいのか、という話はさておいて。
錯覚を利用して感情を動かす:演技、生物模倣と散逸構造
「演技をする」とは
ガラスの仮面のアニメを見ていたら、
「演技する」とはどういうことかが述べられていた。
綺麗なバラを見て、「綺麗なバラ」と言うのは簡単。
握りつぶされたバラを見て、主人公は「綺麗なバラ」と言えなかった。
花の部分が切り取られたバラの茎を見て、主人公は心から「綺麗なバラ」と言えた。
演技とは感情からくる。
その感情を思い起こして心からアクションをすることが演技だと学んだ。
錯覚
本当はそうではないのに、あたかもそうであるかのように見せる「演技」
これを見て、少し違うけど錯覚と似てると思った。
大学の時に錯覚の授業があった。
「どうしようもなくそう感じてしまうこと(錯覚)」を利用して、社会のデザインに役立ててください、といったような内容。
そこで、スピードを出しがちな下り坂のトンネルで、スピードを出したくなくなるようなデザインを考えた。が、どんなものか忘れた。
スピードを出すことで嫌な気持ちにさせるデザインだったか、スピードを出さないことで心地よくなるデザインだったか。
擬人化:AIと感情
本当はそうではないのに、そう感じさせてしまうこととして、擬人化小説を一時期描いていた。
「釘」という人生で釘は何を思うのか
「バブ(お風呂のアレ)」の一生を綴るとどう表現できるのか
人間の道具という視点で見るとどうしてもただのツールとなり意味を持たなくなる。
なんでだか一時期、モノに感情を持たせるとどう思考するか、にハマっていた。
人工知能が進んだ先、奪われないものとして感情があるんじゃないか。
何かに心が動かされる時、行動する時、もはや「何か」に意味がなくなる時代が来て、『心が動かされる』こと自体やそのトリガーに価値が出てくるんじゃないかとふと思った。
観察して、認識して、感情が想起される、そして行動に起こす。
自分が何に感動しているのか、さえ支配されるようになったら、それは本当に替えのきく物理現象になるのかもしれない。
模倣、バイオミミクリー
模倣をするという意味では、バイオミミクリーという言葉も学んだ。
生物模倣技術などと訳されるが、単語に馴染みがなくても、生活には入り込んでいる。
鳥を模倣した飛行機
カタツムリの殻の構造を参考にした家のタイル
蚊の針を真似て作られた赤ちゃんが痛がらない注射器
これも面白い。生物には数億年の叡智が詰まっている。
先ほどの車のスピードの話でいうと、
早く走り過ぎると疲れる車があってもいいかもしれないし、
道路と車をアリの隊列や魚の群れにたとえて群論を考えてもいいのかもしれない。
魚は泳いでる時に他の魚とぶつからないらしい。それをAppleのデザイナーかリサーチャーがずっと眺めていたんだとか。(違う会社だったかも…?)
散逸構造
集まる群れる、という事に関することでいうと「散逸構造」もある。
あまり理解していないけど、これも実はすごい面白い気がする。
一つ一つを見ると、互いに関係なく動いているように見えるが、
それらが集まると総体としての動きを持ち始めるというらしい。
最近考えていたこととして、
事故は車と車がぶつかった瞬間に発生するんだろうか、というのがあった。
A+A'=>A”というように
車と車がぶつかって初めて事故が起こったようにしか普通は思えないが、
実は事故が起きたその「点」に【事故】というものが内在していて、それが封切られただけなんじゃないか、と思った。
車が存在することで、国道や一般道が存在することで、人が運転することで、事故が起きた「点」には【事故】という散逸構造が組み込まれたんじゃないか。
「事故が内在している」という、事象を単なる原因と結果以外の見方をしたいと思っただけなんだけど、やっぱりなかなか難しい。
デザイントークス+「ブックデザイン」
テレビというメディア
唯一、見ようと思って録画している番組が「デザイントークス+」。
情報のインプットとしてテレビが面白いのは、他人が編集したものを見せられる時間になる所。
インターネットで検索すると、どうしても自分が見たいものしか見ない、自分の範囲の中でしか検索できない、という「自分の殻という縛り」があります。
それが、「他人の編集という縛り」をもっているのが、実は自分の枠から出るという意味では自由なんじゃないかと思います。
「ブックデザイン」を見たメモ
坊ちゃんが書かれて百年、 装丁ももちろん変わっているが、実は挿絵が面白い
- 坊ちゃんの顔が時代によって、芋顔になったり、熱血漢になったり、している。同じ文章でも人の受け取り方によってイメージが変わる。
美しい装丁にすると、高価な本となり、読まれなくなってしまう
- 過去の人の思いをそのまま届けつつ、優先順位を読者にしているところが面白いと思った。
- デザインの美しさだけ考えたら、読まれなくても蒐集されれば良いと考えそうなものだけど、祖父江さんは読者ファーストな考え方をしている。そのバランス感が面白かった
- あえて落丁、乱丁を施している。
- 漫画家が描いたものとは明らかに違うが、それが作品に
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装丁からブックデザインへ
- 昔は表紙などの所謂「装丁」を行なっていたが、最近は本の大きさから紙の質から考えるようになり「装丁」という言葉に収まらなくなってきた
ブログの目的
こんにちは
ブログを始めたので、この記事を見ていつでも初心に還れるよう目的をまず書いてみます。
ブログをやろうと思った目的はシンプルです。
日々自分が考えていることがあって、その思考は結局何になるんだろう、と悩んだからです。
アウトプットのないインプットを続けることに、この時初めて違和感を抱きました。
アウトプットを目的としないインプットがあっても良いと思っています。
ただ、僕にとってそれは今とても難しいことでした。
自分にとって面白い発見があった時、いつまでもそれを自分の中で反芻していました。
それを1、2ヶ月ほど続けた時に、自分が全く進歩していないことに気づきました。
自分の中で改善していけるならアウトプットはいらないと思っていましたが、「これは何になるんだろうな」とずっと考えていることに気づいた時、危機感を覚えました。
このブログは、自分の考えを形にしてアウトプットすることで、いつか他の人に読まれてフィードバックが得られたり、似たようなことを考えている人たちと出逢えたら良いなと思って始めました。
ネガティブな切り出し方になってしまいましたが、根本はワクワクしたい!です。
自分が考えたことが何になるんだろうか、何にしていきたいか、をより強く意識するようになり、「ブログ」という形態の先に何かまた違うアウトプットが見つかれば良いなと思っています。
ここまで読んでいただきありがございました。